ものは壊れて、人は死ぬ。
ここ一週間で、お世話になった人々がぱたぱたと死んでいった。みんな若いのになんで!?みたいな感じで、夜起こる例の情緒不安定に、知人の死は大打撃を与えた。
そしてついでに、私と長年連れ添ったPCのハードもついに逝ってしまった。PCとは長年連れ添ったけれど、修理にお金はかけたくないという非情なわたしは、ハードを初期化することにした。ハードのなかには、ざっと4〜5年分のコレクションとか思い出が詰まってるはずなんだけれど、初期化が終わってしまえば何の感情も起こらなかった。ハードが軽くなったからさくさく動くし、よいではないか。
4〜5年分の思い出って、なんとなくストックしていただけで、ただ捨てられなかっただけのデータたちだったんだと思う。私は生き方も、人間関係も、そんな感じで四半世紀を過ごしてきてしまった。私が死ぬときは、他人に思い出なんて残らず、遺品はすぐに捨てられちゃうろうな。
10代最後の19歳のとき、中学時代の同級生が事故って死ぬという出来事があった。亡くなった同級生は、不良のパシリで、嫌いなやつだったけれど、さすがに19で死んでしまうのは、かわいそうだと思った。で、亡くなった彼とそんなに仲良くないやつも、たくさんの人間が、彼の死を悲しんだ。普通の人だったら、それって当たり前だと思うんだけど、19の私にはそれがもやっとしたんだよね。偽善にもえたんよね。そのころ、理由はない、ただ死にたいという気持ちが、全身を支配していた私の心に、大それはきな変化を与えた。
「もし、自分が死んで、よくわからない、嫌いなやつらに偽善的悲しまれるとしたら、そんなの耐えられない!悔しい。だったら生きてやる。」馬鹿すぎるけれど、今まで生きてきた原動力って、それがすべてだったと思うんです。でも、もう大人になったから、今はそんな繊細で頭の悪い気持ちひとかけらも残ってないから、何も残さずここまできちゃったから。今は方向転換して死にたいなんて一切考えないけれど、最近死んだ知人や、19の彼に私の寿命を分けてあげたいような気がした。
というわけで、明日になっても変化はないけれど、とりあえず夜が終わってほしい11月の末日の今日でした。